玉城町内の名所・旧跡
現在、田丸城跡のある丘はその昔、玉丸山と呼ばれその東側は京の都と伊勢を結ぶ初瀬(はせ)街道と南から通じる熊野街道がおち合い、伊勢神宮へと奉幣使が往来する道として、交通の要衝でした。その地を北畠親房・顕信父子を大将と仰ぐ南朝義軍が拠点としたことが引き金となり北朝足利氏は畠山高国・高師秋・仁木義長らを伊勢守護に任命して次々に伊勢の国盗りに向かわせたため、伊勢は戦場となり1342年櫛田川左岸の神山城も落城しました。
15世紀中頃になると下剋上の風潮が高まり、宇治と山田の地下人たちは参宮客や物資の独占をねらって勢力争いをくり返しました。
そこで北畠国司が山田を攻めて放火すれば、山田の地下人は一揆を起こし、3度田丸城に押し寄せて、1532年には浜塚山を取り囲んで火を放ち、猛火の中で三代城主田丸禅正粥親忠は自害しました。1567年に織田信長の伊勢国盗り進攻がはじまると、北畠国司は松阪の大河内城に一族の運命をかけてたてこもりました。
統一をあわせる信長は二男信雄を養子に入れ和を結んだかに思えましたが田丸城主中務少輔直息が岩出城に退くと、信雄は大河内城から田丸城に移り、三層の天守をかがげて入城、その後北畠国司と一族を討ち滅しました。しかし1580年田丸城は炎上し、松ヶ島へと移っていきました。その後田丸城は城主を次々と変えその合戦の舞台は城下町としてまた参宮の宿場町として栄えていきました。
富向山田宮寺十一面観音
荒木田氏長の草創といわれ本堂には十体をこえる仏像を所蔵していたと記録されていますが、今は本町唯一の重要文化財、十一面観音を残すのみです。
弘法石
国束山麓、百瀬川の災害復旧工事の際、約二百年ぶりに発見された巨石に安置供養されています。
神照山廣泰寺
文明18年、玄虎禅師が開山。禅師は一休和尚と双璧と呼ばれた名僧で伊勢の虎蔵主と呼ばれていました。夏の座禅道場や精進料理、境内の秋の紅葉は有名です
奥書院
延宝5年に城主久野氏三代宗俊公が城内三の丸に建てた御殿の一部といわれ明治維新後、明和町竹川の副田さん宅へ払い下げられていたもので約120年ぶりに城郭内に里帰りが実現したものです。室内の幾つかは江戸初期の様式をそのまま残しています。
初瀬(はせ)街道
大和と伊勢を結ぶ最古の道といわれる街道です。町の中心部でこのはせ街道と紀州からの熊野街道が合流し伊勢神宮へと続いていました。玉城町はこの伊勢神宮参拝者で大変な賑わいだったと伝えられています